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トランプを勝たせた「マノスフィア」とは何か?
五野井 郁夫(高千穂大教授)

政治・外交

「新反動主義」の広がりは現実社会に逆行

◇「アメリカ政治の新たな断層」
 2024年のアメリカ大統領選挙結果に世界中の多くの人々が絶望したが、ガッツポーズをした者たちもそれと同じくらい多くいたはずである。トランプに票を投じた背景には自分たちの方を向いていないリベラルたちへの失望、移民問題やロシアウクライナ戦争以降より顕著になったインフレ疲れ、環境重視の改革のコストなどに懸念を募らせる有権者の存在があることだろう。だが、今回の大統領選での説明要因としてよく言及されるのが男女で、ハリスとトランプの差が分かれたことだ。男性の44%がハリス支持で54%がトランプ支持だったのに対して、逆に女性の54%がハリス支持で44%がトランプ支持だった。そして人種別に見ると有色人種の女性でハリス支持が多かったという結果である。

 もちろんそれ以外の要素もあるだろう。2024年11月16日のニューヨークタイムズ紙では卒業資格の格差、つまり学歴格差を人種や地域による格差を超えた「アメリカ政治の新たな断層」と呼んでいる。政治的に二極化したアメリカでは、大卒者と非大卒者の割合に基づく投票の差が年々激しくなっているというのだ。確かに出口調査結果を見ても、大学の学位なしの61%がトランプ支持、35%がハリス支持であるのに対して、トランプとハリスの支持は大学学位取得者では45%:53%とハリス優位に、修士号以上で38%:59%とハリス優位になるというデータもある。

https://www.statista.com/statistics/1535279/presidential-election-exit-polls-share-votes-education-us/

◇マノスフィアとはなにか?
 学びの問題や学位をめぐるアメリカの反知性主義についてはまた回を改めるとして、今回は性別のなかでも男たちにだけ訴えかけることで支持が成立する政治現象に注目してみたい。とくにこの数年ほどで耳にするようになったのが「マノスフィア(Manosphere)」という言葉である。これは“man”+“sphere”の造語で、トランプはこのマノスフィアを巧みに掴んだことが勝利につながったという分析も数多く出てきている。トランプが働きかけ今回票田としたマノスフィアは、訳すといわば「男の世界」「男性界隈」「男性文化圏」とでもいうべきものだ。その主張を分かりやすく説明するならば、世界はフェミニズムとポリティカルコレクトネスによって歪められており、自分たちはそれらの犠牲者だと信じる者たちの共同体である。このような反フェミニズム的でミソジニー(女性嫌悪)的な男性中心の世界観からなるオンライン・コミュニティや文化を指す。

 マノスフィアとは、とくに男の権利や男らしさといったアイデンティティの追及、男性性の復権、先天的な性差、ヘテロセクシャルで男性中心主義的なデートや恋愛観、格闘技といったスポーツやゲーム、マッチョカルチャーから男性向けポルノコンテンツまで、ものによっては女性の前では言えないことを大っぴらに言い合えるオンライン上のロッカールーム・トーク的な場である。フェミニズムに攻撃されていると思う者たちはこの場を心地よく思うことだろう。おそらくこの文化圏の構成要素をいち早く学術的に炙り出したのは人類学者のメラニー・グラリエが『ALPHA MÂLE(アルファ男性)』(スイユ社、2017年、未訳)で明らかにしたナンパ師の共同体であり、そのような共同体を与件にして人権等の近代的な価値観と決別することを目的に記されたのがニック・ランド『暗黒の啓蒙書』(五井健太郎訳、講談社、2020年)である。日本版のマノスフィアだと、ここにアニメや漫画等の表現規制などの問題も入ってくることは想像に難くないだろう。

◇マノスフィアはどこからきたのか?
 男性中心主義自体は古典古代から近代まで遡ることができるが、少なくとも現在のマノスフィアはインターネットの普及とともに形成されてきた。とくに2000年代初頭から中頃にかけてのインターネット上のフォーラムや掲示板、ブログなどが男性の意見や経験を共有する場として機能していった。だがこのコミュニティも、当初から反フェミニズム的でも攻撃的あったわけではない。

 アメリカのマノスフィアはおもに英語圏のインターネットの電子掲示板である2ちゃんねるである「4chan」から派生しツイッターや「Reddit」に至るミーム文化のなかで発展してきたが、大本の2ちゃんねるは2004年段階の『電車男』などを想起すれば分かるように、どちらかといえば非モテの男をみんなで応援するオンライン上の穏健な共同体という側面もあった。だが次第に過激化し、反フェミニズムや男性優位が強くなっていった。

 現在では人種差別や外国人嫌悪、そして西洋文明が脅威に晒されているとする「怒れる白人男性」たちからなるオルトライトと呼ばれる白人至上主義者の保守層と結びつき、男性が抑圧されていると感じる状況や文化的偏見への不満が増幅される場のひとつになっている。

◇トランプとbro vote
 トランプの支持者の一大ブロックである、ラストベルトの住人たちや滑り落ちつつある中間層の人々にとってトランプが自分たちの救世主と映ったように、マノスフィアに浸かっている人々にとって、女性問題でリベラルメディアから攻撃されフェミニストやポリティカルコレクトネスと闘っていると映るトランプは救世主か何かのように見えている。

 ようするにマノスフィアの住人たち ——かれらを政治哲学では「新反動主義者」(詳細はユク・ホイ「新反動主義者の不幸な意識について」、e-flux Journal #81, April. 2017を参照されたい)と呼ぶ—— にとってトランプはフェミニズムによって支配され腐敗した現代社会を正す者なのである。しかもこうした主張は、かつての地上波やケーブルテレビ、ラジオが担っていた情報番組の代わりにトランプも出演したジョー・ローガンのマノスフィア要素満載のポッドキャストの番組で何時間もダラダラと「ながら視聴」するなかで、自然な主張として受けいられていったのだった。

 トランプの18歳の息子バロンがトランプにローガンらのポッドキャストに出るように促したことにより、これまで政治的な話題には関心があっても選挙政治に関心がなかった若いZ世代の男性層をターゲットにして票の掘り起こしに成功し、イーロン・マスクやダナ・ホワイトらブラザーたちの支援も勝ち取るなかで、それらの層を投票所へと向かわせた”Bro Vote”(ニキ投票*ニキはアニキなどの意)が可能となったのだった。

ポッドキャストとは、ネット上に公開された音声・動画データを視聴できるアプリ

 かれらから上の世代のマノスフィアの人々は現在まで続いている近代以降の人権やフェミニズム等の近代的価値観が達成された社会を、人権やフェミニズムが男性を支配し抑圧する社会だと捉え、それらに順応している人々を映画『マトリックス』のワンシーンになぞらえて「ブルー・ピルを飲んだ」と思っている。それに対してフェミニズムの支配から逃れ反旗を翻した自分たちを「レッド・ピルを飲む」ことで選び取った者たちだと見做しており(共和党も偶然にも赤である)、実際に自分たちが「赤いピル」を飲んだと表現することで、映画の中のように新たに世界が構成されたのだと考えているのだ。

 こういう意識を持った者たちにとって、民主党こそがLGBTQの権利を説き法制化し、フェミニズムを広げることでかつての男女の二元論的な価値観をご破算にし、ポリティカルコレクトネスをヘテロセクシャルな白人以外のマイノリティの権利を拡張し、男性で白人優位主義者の彼らにとっての世界を生きづらくしてきた諸悪の根源であり元凶なのだ。そういう者たちが今回のアメリカ大統領選で行った投票行動こそが“Bro Vote”だったのである。これが54%の男性によるトランプ票の正体のひとつだといえる。

◇マノスフィアの政治文化がもたらすものは?
 マノスフィアの政治文化においては、近現代の先進的な政治においては価値とされたもののいくつかはむしろ嫌われ、これまで大っぴらにはよしとされなくなって久しい、男性中心主義や白人至上主義、西欧中心主義的な価値観が再び評価されるようになる。いわばさかしまの世界が到来しているともいえるだろう。これまでのように多文化共生よりも自民族中心主義を、社会のやマイノリティの権利よりもマジョリティの権利を、利他主義よりも利己主義を、国際協調よりも孤立主義を説くほうが支持される。もちろんここにおいてはアメリカの民主党やリベラル、左派、そしてフェミニズムは目の敵とされる。

 マノスフィアは、男性の自己意識やアイデンティティの構築と関係しており、投票行動にも影響を与えている。とくに、トランプがこのコミュニティのニーズや意見を的確に捉え支持を得たことは、共和党とトランプに選挙戦略として短期的には勝利に導くという利はあった。だがマノスフィア的な価値観が強化されることで、男性中心主義や白人至上主義が再評価される新反動主義が政治文化として広がることは、これまでの社会の多様性や平等主義、そしてなによりも現実の社会のあり方に逆行するものであり、アメリカの国内外でさらなる深刻な社会的な分断を引き起こすため、中長期的には何の利益にもならない。

 トランプの勝利がもたらしたのは、表面的には単なる政治的成果ではなく、アメリカ社会における深刻な価値観の変化である。その根底には、マノスフィアが育んできた反フェミニズム的な思想がある。トランプはこの流れを巧みに利用し、マノスフィアの支持を得ることで短期的な選挙勝利を収めたが、その結果、社会内部の分断と対立は今後ますます深刻になることが予想される。このような新反動主義は、アメリカの民主主義や文明社会そのものを危うくするものであり、結果として自らが重視してきた西欧世界とその価値観や文化を自ら壊すこととなりかねないのだ。

【略歴】
五野井 郁夫(ごのい・いくお) 高千穂大学経営学部教授
1979年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了。博士(学術)。専門は政治学、国際関係論、平和研究。日本学術振興会特別研究員PD、立教大学法学部助教などを経て現職。「2013ユーキャン新語・流行語大賞」にランクインした「ヘイトスピーチ」で顕彰。主著に『「デモ」とは何か──変貌する直接民主主義』(NHK出版)、『国際政治哲学』(ナカニシヤ出版、共著)、『山上徹也と日本の失われた30年』(集英社インターナショナル、共著)。翻訳にウィリアム・E. コノリー『プルーラリズム』、イェンス・バーテルソン『国家論のクリティーク』(いずれも岩波書店)。

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