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野球が結ぶ日米 現地で体感──広がる大谷効果
曽根 健孝(在ロサンゼルス日本国総領事)

多くの野球ファンらが熱狂したMLB東京シリーズ。千両役者ぶりを発揮した大谷翔平選手の大ポスターには人だかりができた=東京ドームで中澤雄大撮影

政治・外交

外交の要諦は人なり──野球を通して
 互いに興味と尊敬の念を共有、理解が深まる

◇「スポーツによる外交」──野球は私の特別な存在
 2022年9月に在ロサンゼルス総領事に着任して2年半になるが、その直前まではスポーツ武道担当大使を兼務していた。最近スポーツをする機会は減ってしまったが、生来のスポーツ好きであるので、願ってもないポストであった。元来「スポーツによる外交」への関心を持ち続けてきたが、中でも野球は特別な存在であった。

 振り返れば、小学生の頃、一番人気のスポーツと言えば野球。そして野球と言えば、読売ジャイアンツであった。北海道で育った私であるが、当時、地元のプロ野球球団はなく、いつもテレビ中継されるのはジャイアンツ。一番なじみが深く、そして何よりも負けない。いつしか絶対的な存在になっていた。当時、ブラウン管に映し出された長嶋茂雄、王貞治、柴田勲、土井正三、高田繁、堀内恒夫……。1974年10月14日の後楽園球場。「我が巨人軍は永久に不滅です」──ミスター・ジャイアンツが引退セレモニーで発した言葉は忘れられない。

 少年野球に熱中し、将来の夢はプロ野球選手だったが、もちろん夢で終わった。高校が野球の強豪校であり、甲子園を目指していた同級生を応援するためによく地区大会に出かけたものだった。偉大な選手への尊敬と憧れ、大声援の中で繰り広げられるチームの駆け引きと監督の戦略・采配。3時間に及ぶ筋書きのないドラマ……私にとって野球は、その場を離れられない、惹きつけてやまない唯一のスポーツであった。

◇150年の日米野球親善が映し出す数々のドラマ
 さかのぼること150年余り、1872(明治5)年にアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏が第一大学区第一番中学校(翌73年、開成学校〔現東京大学〕と改称)の生徒にベースボールを伝えてから、日本人はベースボール、野球の持つ魅力に取りつかれてきた。

 150年の日米野球親善の中には、様々なドラマがある。ロサンゼルスに着任してからも多くのことを学んだ。昨年、日系人の野球に関するドキュメンタリーを観る機会があった。戦前に日系一世として渡米し、ベーブ・ルース選手やルー・ゲーリック選手とも交流のあった銭村ぜにむら健一郎選手(1900─68)は、第二次大戦中に強制収容されたアリゾナ州のヒラ・リバー収容所の中でも野球チームを編成し、地元の野球チームとの交流。その子供が戦後広島カープに入団した銭村健四たてし選手(1928─2000)であることを知った。日米が戦火を交える中でも野球が両国を繋いでいると感じた。

ベーブ・ルース銅像=静岡草薙球場

 戦前・戦後の日米親善試合や戦中の日系人の苦難の中での野球への情熱など、日米の野球交流に多くの歴史があったが、日本は、ずっとアメリカン・ベースボールの背中を追い続けてきた。日本にも多くの大リーグ(MLB)選手が助っ人として来日するようになり、大リーグの存在が近くなった。ベーブ・ルース選手のホームラン世界記録714本を塗り替えたハンク・アーロン選手を、「一本足(フラミンゴ)打法」の王貞治選手が抜いて世界一になった時には、「日本がアメリカのベースボールに肩を並べた」と日本中が熱狂した〔註1〕。1964、65年に村上雅則選手が日本人初のメジャーリーガー〔註2〕となっていたが、それでも日本人選手がMLBで活躍できるとは、日本国民の大半は……少なくとも私にとっては正直、遠い夢でしかなかった。

◇ドジャースと日本球界の浅からぬ縁
 時代は平成に入ると、近鉄バファローズの野茂英雄投手があえてメジャーに挑戦し、95年にロサンゼルス・ドジャーズとマイナー契約を結んだ。その後、村上選手から約30シーズンぶりとなる二人目のメジャーデビューを果たすと、やがて「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから投げ下ろすフォークボールで次々に三振を奪った。「NOMO」フィーバーに熱狂する現地のファン。そうした現地の状況が衛星放送で生中継され、「プロ野球出身者がベースボールの本場で大リーガーと同等に戦えるようになった」と、日本人は感じ始めたはずだ。その感慨は間違っていなかった。MLBでの野茂選手の活躍は、制度面においても日本人選手が大リーグで活躍する道を拓いてくれた。まさにパイオニアであった。

ドジャースタジアムとロスの街並み

 野茂選手に続き、腕に覚えのある有力選手がMLBに挑み始めた──今年米国で殿堂入りしたシアトル・マリナーズのイチロー選手しかり、ニューヨーク・ヤンキースのワールドシリーズ優勝(2009年)に貢献、同MVPを受賞した「ゴジラ」松井秀喜選手然りである……。そして今、二刀流でベースボールの常識を変えた大谷翔平選手ら多くの日本人が主力として活躍するようになった。

 2006年に始まったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での日本代表の活躍も、その自信を深めてくれた。23年の劇的な日本チームの優勝をきっかけに、私の友人が「野球を再び球場で観るようになった」と振り返った通り、長く続く経済の低迷やコロナ禍などで社会が鬱々とする中で実に素晴らしいニュースであった。

◇大谷効果──在LA日本企業、日系人コミュニティに多大な影響
 24年のロサンゼルスに目を向ければ、エンゼルスの大谷翔平選手、オリックス・バファローズから山本由伸投手がドジャースへ移籍した時の熱狂はすごかった。連日、大谷選手の活躍を伝えるニュースが紙面やテレビ、SNS上にあふれ、ドジャース・ファンを喜ばせた。私が会う人たちも口々に大谷選手の活躍を賞賛した。大谷選手が「50本塁打、50盗塁」という前人未到の偉業を達成して3度目のMVPを獲得、ドジャースがワールド・シリーズを制覇した。ロサンゼルスの街はドジャース優勝一色となった。その中心に二人の日本人選手がいたことは当地の日本人、そして日系人にとっても大きな誇りとなった。野球を通じて日米が更に近くなったと感じた。

ドジャース移籍1年目のシリーズで大活躍した大谷翔平選手の「史上初3度目のMVP満票&DH専任」を大きく報じるスポーツ各紙=中澤雄大撮影

MLB東京シリーズのオープン戦(対巨人)で凱旋アーチを放った大谷選手の「千両役者」ぶりを伝えるスポーツ各紙=中澤雄大撮影

 大谷効果は、野球のみならず、日本企業や日系人コミュニティにも少なくない影響を与えている。リトル東京の日系ホテルの壁に、画家のロバート・バーガス氏が大谷選手の壁画を描き、私はそのお披露目式に参加した。今では、野球観戦にあわせた一大観光スポットとなっている。そんなリトル東京は140年の歴史を誇る全米最古の日本人街の一つであるが、実は「危機にひんした町」に指定されているのをご存じだろうか〔註3〕。その再開発、特に日本文化の発信拠点として強化すべく取り組んでいる最中さなかにあって、大谷選手の壁画は、リトル東京の活性化にも大きく貢献してくれているのだ。

◇「必然」と感じた野茂選手のドジャース入り
 ドジャースの日本人選手を受け入れ、彼らの活躍に歓喜するドジャース・ファン。その感動と一体感を見るにつけ、その背景には野茂選手がドジャースに入団したのも、偶然ではなく必然であったと感じる。なぜなら、ドジャースと日本、特にドジャースの会長を長く務めたオマリー親子と日本の深いつながりがあったからだ。

ブルックリン時代のドジャースで大活躍した黒人選手ジャッキー・ロビンソン

 着任早々、ドジャース・ファンの日系人の方からこんな要望があった。
 「昔、ドジャース球場の駐車場側に日本庭園があって、そこに鈴木惣太郎氏(1890─1982)が寄贈した石灯籠がある。鈴木氏は日本のプロ野球の発展に貢献された方〔註4〕だが、当時オーナーだったウォルター・オマリー氏はよくその公園に行き、日本の雰囲気を楽しんでいた。しかし今は不法侵入者が増えたことから閉鎖されて荒れ果てている。是非、公園を整備するか、少なくとも石灯籠をファンの見える場所に動かせないものか」──。何人かの方々に話をしたが、かなり経費もかかるということで、実現は難しいと思われていた。

 ところがである。大谷選手のドジャース移籍後の24年3月末に、ドジャースから「石灯籠を球場最上階のデッキに移設する」と連絡を受けた。あの石灯籠は、ニューヨークのブルックリン・ドジャース時代からオマリー氏と親交のあった鈴木氏がロサンゼルスへの本拠地移転のお祝いに寄贈したものであるという逸話には心底驚いた。

◇「野球とベースボール」歴史展──米野球殿堂博物館で7月開催へ
 25年7月からニューヨーク州クーパーズタウンにあるアメリカ野球殿堂博物館で「野球とベースボール」と題して、日米野球交流の歴史に関する展示会が開催される。昨年7月にはそのプロモーションのイベントがドジャース球場であり、私も招待された。その時、アイク生原いくはら氏(本名・生原昭宏、1937─1992)のご家族にお会いした。生原氏は1965年、前述した鈴木氏の紹介でドジャースの研修生となり、晩年までピーター・オマリー会長(ウォルター氏の子息)を補佐して、日米野球親善にも貢献された方である。そんな生原氏が今もドジャースにとって大切な存在であることを感じた瞬間だった。

トップバッターの大谷翔平選手の打順を伝える東京ドームの電光掲示板。MLB東京シリーズ・対巨人オープン戦で=中澤雄大撮影

日米のファンの期待に応えてホームランを放った大谷選手。MLB東京シリーズ・対巨人オープン戦で=中澤雄大撮影

 外交の要諦は人である。人と人の関係は、一方がいつも優位に立ったり、してあげていると感じたりすると、深いつながりとはなり得ない。日本の「野球」がアメリカの「ベースボール」と同等、いやそれ以上に多くの偉大な選手を生み出していると感じられる今、野球というスポーツを通じて、日本とアメリカが互いに尊敬と興味を共有し、従来になく深いつながりを持つ関係性に発展していると感じている。

 昨年と今年、アリゾナ州でドジャースとパドレスのキャンプをそれぞれ訪問した。その際多くの選手の陰に、素晴らしい日本人コーチ、トレーナー、スタッフの尽力があることを教えてもらった。選手以外にもこんなにも日本人が活躍していることを嬉しく思うとともに、ベースボールの懐の深さも感じた。ピーター・オマリー氏と野茂英雄氏は今でも一緒に日米の少年野球交流に取り組んでいる。そうした人々の努力と功績などがロサンゼルスでのドジャース人気を支え、日本ブームにもつながっているのだ。

 今シーズンは、千葉ロッテマリーンズから佐々木朗希投手もドジャースに加わった。私が担当する南カリフォルニアの3球団では、パドレスのダルビッシュ有投手、松井裕樹投手、エンジェルスの菊池雄星投手と計6人の日本人選手がプレーする。応援の熱もさらに高まるだろう。南カリフォルニアから野球を通じて日米交流が更に深まると確信している。

ドジャースタジアム

ドジャースタジアム最上階のデッキに移設された鈴木惣太郎氏寄贈の石灯籠=曽根健孝撮影

日米野球の架け橋になった鈴木氏がドジャースに寄贈した経緯などを説明する銘板と赤々と輝く石灯籠=曽根健孝撮影

鈴木氏夫妻寄贈の文字が刻まれている=曽根健孝撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〔註釈〕
註1=ハンク・アーロン選手(1934─2021)がミルウォーキー・ブルワーズ時代の1976年に記録した通算755本塁打は当時のMLB記録であり、王貞治選手は翌77年9月の対ヤクルト戦で通算756本塁打を放ち、世界記録を達成した
註2=南海ホークスから「野球留学」で渡米し、サンフランシスコ・ジャイアンツで2シーズン出場。「マッシー村上」の愛称で親しまれた
註3=アメリカの非営利団体「ナショナル・トラスト歴史保存協会」が2024年5月、「アメリカで最も危機に瀕している歴史的地区」11カ所を発表し、リトル東京も含まれた
註4=公益財団法人野球殿堂博物館によると、鈴木氏はプロ野球草創期日米野球の交流に尽力した。青年時代に貿易のために渡米し、アメリカ野球の全般にわたり実地に研究を重ねた。豊富な知識により日本球界を指導し、正力松太郎氏の大リーグ招聘(1934年)に尽力した。更に日本プロ野球創立につくし、プロ野球界の要職に歴任。戦後は進駐軍と折衝して甲子園、西宮、後楽園の軍接収の早期解除に関して多大な功績を残した

【略歴】
曽根 健孝(そね・けんこう)在ロサンゼルス日本国総領事
1965年、北海道生まれ。一橋大学法学部卒。89年、外務省に入省。経済局経済協力開発機構室長、経済局国際経済課長、在アメリカ合衆国日本国大使館参事官、北米局北米第一課長、在インド日本国大使館公使、大臣官房審議官(アジア大洋州局南部アジア部、経済局)、大臣官房国際文化交流審議官(大使)等を歴任し、2022年9月より在ロサンゼルス日本国総領事

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