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父ドナルド・キーンの「足跡」をたどる旅 (下)
キーン 誠己(一財 D・キーン記念財団代表理事)

筆を休めて、茶目っ気たっぷりにレンズを見つめるキーン博士=2011年7月3日、キーン誠己撮影

社会・教育

感慨ひとしおだった資料調査 in コロンビア大図書館

◇小泉信三の手紙──行間から滲み出る深い信頼関係
 今回のコロンビア大学での父ドナルド・キーンの資料調査は、大学構内に以前感じたことのない緊張感が満ちていたが、調査そのものは順調だった。過去三回の調査は、作家などから父がもらった書簡のみだったが、今回からは贈呈された署名入りの書籍も対象に加わった。当初はあまり期待していなかったものの、実際に手にしてみると、単なる“署名入り書籍”とだけでは済ますことのできない意味があり、興味は尽きなかった。

夕暮れのハドソン川が美しい自宅書斎の窓辺で、執筆に励んだ在りし日のキーン博士=2011年8月26日、キーン誠己撮影

 私にとって興味深かったこと、時には胸を打たれたことなどをいくつか書いてみたい。意外と知られていないが、父を日本で初めて紹介したのは慶應義塾大学の塾長も務めた小泉信三だった。小泉は1953(昭和28)年、エリザベス女王の戴冠式(6月2日)に出席するため訪英された皇太子殿下(現・上皇陛下)の教育責任者として同行した。直前の5月26日には、殿下のお供をしてケンブリッジ大学を訪問されているが、通訳としてお二人をご案内したのが父だった。当時、大学で「日本の文学」を講義しており、栄に浴する機会を得たのである。晩年、吹上御所にお招きいただいた父が天皇陛下(当時)と往時のことを懐かしそうにお話しする姿を目にしたが、小泉もその折のことを「外遊日記」として『文藝春秋』54年新年号(文藝春秋新社)に発表し、文中で<キイン博士>として父に触れていた。

 その後父が小泉とどのような交流があったか不明だ。ただ今回の調査で、小泉からの手紙二通と贈呈された書籍の存在が判明した。消印が薄くて日付は判然としないけれども、内容から54年前後ではないかと思う。当時30歳代前半、晩年からは想像できないほど若くて血気盛んな父を、理を尽くして諭す小泉の文面に感心する。父が小泉に宛てた内容は想像するしかないが、日本でマルキシズムが思想界のみならず文学界においても台頭しつつあった時期でもあり、そのことと無関係ではないと考えられる。

 例えば国文学者の西郷信綱は『文学』54年8月号(岩波書店)において、同誌6月号に父が書いた書評の反論として、
 <……ハッキリいうが、キーン氏の文学のとらえかたは貴族的であり、プチ・ブル的である。こういういいかたが気にくわなければ、たいへんお上品であり紳士的でございますといいかえてもいい><……キーン氏の国であるイギリスについていっても、私たちが日ごろ親しみ、かつ恩恵をうけている一連のマルクス主義の文学論文や文学史研究にくらべると、氏の論理や思考はおそろしくナマクラで、常識的で、感傷的である>とある。父が<イギリス人>であるとはご愛嬌だが、このような批判があったようで、後年、父から「対応に苦慮した」と聞いていた。

年齢を感じさせず常に仕事に没頭したキーン博士=2011年7月2日、キーン誠己撮影

 きっと父は手紙で小泉を信頼し、文学の世界において自らの置かれている状況を説明したものと思われる。小泉も書簡で、日頃父の文章を読んでいて、実によい日本文を書き、簡潔で、引き締まり明晰めいせきで申し分ないと褒めている。そして父の置かれた状況を、遺憾の至りと言う。しかしその風潮に対し外国人である父が批判すると、やはり好ましからぬ反抗が起こるかもしれなからと注意を促していた。それも名文であった。さらに父の研究のために夏目漱石門下である安倍能成あべよししげや小宮豊隆を紹介しようと書いているが、恐らく二人となんらかの交流があったのだろう。

 父から小泉について聞くことはほとんどなかったが、小泉が晩年の福沢諭吉を直接知っており目をかけてもらっていたということに驚いていた。若い人が読むべき本の一冊として、父は『福翁ふくおう自伝』をあげている。

◇三島由紀夫との友情──『サド公爵夫人』翻訳秘話
 次に三島由紀夫に触れたい。三島が父に遺した97通の手紙の実物を初めて見た時の感動は忘れられない。私にとってそれは、70(昭和45)年7月に国立劇場の廊下で偶然、三島を間近で見かけた時に受けたオーラに似た感覚だった。既に『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社・1998年)で目を通していたが、活字では語りつくせない真実というものを生の文字群からは読み込むことができる。二人は間違いなく親友であったことが分かる。

親交のあった三島由紀夫から献本された蔵書を見つめるキーン博士=2011年7月2日、キーン誠己撮影

 70年11月25日の三島の死後、瑤子夫人によって書かれた約10通の手紙からも父への信頼がうかがえた。自死から20日後に届いた夫人からの封書は、父が三島の死の直後に夫人に宛てた手紙の返信であろう、手紙をもらったことの礼から始まり、突然奈落の底に落とされた心境を吐露する文面に接して胸を打たれずにはいられなかった──。

 いわく、夫・三島の死以来、異次元の世界にいる気持ちであること、常には夫の考えや行動に否定的であったが、現在は武人の妻として涙も見せずにいること。その気持ちをどう表現したらよいか分からないが、不思議なほどに冷静であることなど切々と綴られている。またこのような気持ちがいつかは崩れて寂しくなるのでは、とも。夫に対し<否定的>ではあったけれども、今は夫の行動を信じ、耐え忍んでるとの文面には、瑤子夫人の心情が痛いほどに思いやられる。父が彼女にとって、三島亡き後の気持ちを打ち明けることができる相手だったのではと思う。他の手紙においても、三島同様に夫人も父に厚い信頼を寄せて、なにかと相談していたのだ。遺された子供たちの教育についても相談されたと聞いている。

『三島由紀夫未発表書簡』(中央公論社)。全209頁にわたり、創作の喜びや悩みなどをユーモアを交えながら赤裸々に綴った書簡を収める=中澤雄大撮影

 今回初めて見た資料として、父が作家たちから贈呈された署名入り書籍があった。300冊ほどあるのだが、限られた時間の中で今回は10冊ほど調査した。ず三島由紀夫著『サド侯爵夫人』(中央公論社)は限定380部で67(昭和42)年8月18日に発行された豪華本。ビロードの表紙でタイトルは金板に刻印されている。見事で贅沢ぜいたくな装丁だ。奥付には<限定380部ノ内1番>と記されている。敢えて1番を父に贈ったことは明らかに『サド侯爵夫人』の翻訳をしてもらったことへの感謝の気持ちだと思う。

 父は、『サド侯爵夫人』を軽井沢の別荘で翻訳したが、英訳の第一草稿ができ上がり、草稿と共にそのことを手紙に書いて送ると、三島は喜んで直ぐに電報を打った。

 バンザイバンザイ オカゲサマデ イママデ フランスゴシカ シヤベラナカツタサドフジンガ キヨウカラ ウツクシイ エイゴヲ ハナセルヨウニナリマシタ ホントウニアリガトウ」ミシマユキオ(消印・長野中軽井沢 昭和41年9月8日 『三島由紀夫未発表書簡』所収)

 三島のユーモアについ笑ってしまう。父によると「僕は、第一草稿は自分の翻訳を読むに耐えられる英語へと磨く辛い仕事の始まりに過ぎなかったので、電文を見て面食らいました。しかし三島さんのような天才にはそんなことは分かるはずがなかったのです」と話していた。

◇独特のユーモアに満ちた大江健三郎の葉書
 軽井沢と言えば、三島だけでなく大江健三郎からも葉書を軽井沢の別荘で受け取っている。1966年8月15日の消印がある。先ず、電話をもらったことのお礼を述べ、父が東京に戻った時に会うことを楽しみにしている、とここまではお決まりだ。軽井沢のような涼しいところにいては日本の夏の暑さは想像が働かないのでは、東京ときたら空想力が蒸発しますと書く。空想力が蒸発するという表現に大江らしい独特なユーモアを感じてしまう。この年父は軽井沢に暮らし始めて二年目だった。

中軽井沢の別荘でくつろぐ若き日のキーン博士=1970年頃撮影

緑に囲まれた別送の書斎で机に向かうキーン博士=2013年8月14日、キーン誠己撮影

 

 

 

 

 

執筆の合間を縫って軽井沢の森を散歩するキーン博士=2016年8月21日、キーン誠己撮影

 後に大江と父はなぜか交流が途絶えてしまったのだが、この頃の手紙は、大江の父への尊敬と感謝の気持ちにあふれていた。別にもらった手紙でもオペラ、特にマリア・カラスの話題で盛り上がり、父が持ち帰った大江へのニューヨーク土産は日本では買えない珍しいレコードだった。

 今回の滞在で父の関係者に思ったより多く会えたことは有意義だった。コロンビア大名誉教授で日本でも高名な政治学者のジェラルド・カーティス先生夫妻、父の教え子でコロンビア大ドナルド・キーンセンター前所長のデイヴィッド・ルーリー、現所長のハルオ・シラネ、歴史学のキャロル・グラック、図書館長のジム・チェンの面々だ。日程が合わずに会えなかった人たちもかなりいたし、生まれ育ったブルックリンでも他に調べたいことがあったのだが、かなわなかった。これからも毎年ニューヨークへ行く必要がありそうだ。

【略歴】
キーン 誠己(きーん・せいき) 浄瑠璃三味線奏者、一般社団法人ドナルド・キーン記念財団代表理事
1950年、新潟県旧巻町(現・新潟市西蒲区)で、老舗造り酒屋「上原酒造(現・越後鶴亀)」の次男として生まれる。東京外国語大学外国語学部フランス語学科卒業後、人形浄瑠璃文楽座入りし、五代目鶴澤淺造つるざわあさぞうを襲名。コロンビア大学名誉教授で日本学士院客員、文化勲章受章者のドナルド・キーン博士が2012年に日本国籍を取得したのを機に養子縁組し、旧姓の「上原」から「キーン」に改姓。晩年まで身の回りの世話をするとともに、1963年に大英博物館で発見された江戸時代初期の「幻」の古浄瑠璃『越後國柏崎 弘知法印御伝記こうちほういんごでんき』の300年ぶりに復活上演、ロンドン公演などを果たした。古浄瑠璃を弾き語りする際の芸名・越後角太夫えちごかくたゆうはキーン博士が命名した。2020年5月に設立した記念財団の代表理事として、博士の業績顕彰をはじめ、遺された書籍・原稿・書簡の整理など調査研究に取り組む。キーン博士との共著として『黄犬キーンダイアリー』(平凡社)がある。ドナルド・キーン記念財団のホームページでは、キーン博士の年譜をはじめ、さまざまな催し告知や誠己氏のエッセイなどを読むことができる。

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