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 外交裏舞台の人びと
 鈴木 美勝(ジャーナリスト)

コラム

第2回 末次一郎と若泉敬<2> 沖縄返還で連携した二人の国士

◇末次一郎を育てた陸軍中野学校

 末次一郎が、戦争で<死にそびれた人間>である自らに課した使命は「戦後の後始末」。その主要なものは、領土の祖国復帰(沖縄、北方領土)と並んで「戦争受刑者」の釈放、そして在外同胞や旧兵士の引き揚げ促進運動と遺家族の支援活動だった。終戦時の在外同胞は軍民合わせて約660万人。連合国の協力で、終戦2か月後から引き揚げが始まったが、なおも〝戦地〟で軍務を遂行する日本人がいた。その一人が、比・ルバング島で敗戦後も闘い続け、ちょうど半世紀前の1974年、29年ぶりに祖国への生還を果たした小野田寛郎だった。末次はその小野田と陸軍中野学校二俣分校での同期。中野学校の詳細はそれまで一般的に知られていなかったが、秘密戦士を育てた同校に世間の注目が集まった。そこでの教育は末次らの生き方、考え方に多大な影響を及ぼした。

◇復員兵・小野田寛郎との再会

 末次は、ルバング島での「30年戦争」を戦っていた小野田の祖国生還に向けて中野学校の同志たちと共に八方手を尽くし、その実現にこぎつけた。中でも、末次は小野田の最も良き理解者であり、心身のリハビリが不可欠だった小野田の社会復帰への支援を惜しまなかった。小野田は「親」の役目を引き受けてもらったようなもの、と言って末次に感謝した。変貌した戦後ニッポンに馴染めない小野田のブラジル移住についても、大多数の人が反対する中で、小野田の気持ちを最大限尊重し協力した。また、移住後のブラジルで苦楽を共にすることになる人生の伴侶、小貫町枝との結婚を薦めたのも末次だった。「『名』だけが大きく世に出てしまい、その実、敗戦による急激な思想の変化に疎く、社会の現状に如何に対処すべきか当惑する私を指導してくれたのが末次君である」(『追想・末次一郎―国士と言われた男―』)

 小野田は、そんな末次を「理は理、情は情」の人—理に適う助言と併せて深い情を以って接してくれた人―として全面的に信頼した。後に北方領土返還問題で関係を深める小和田恒(第22代国際司法裁判所長、元外務省事務次官)の言葉を借りれば、末次一郎は「至誠の人」だった。

 安全保障問題研究会を立ち上げた末次に最側近として仕えた吹浦忠正はふり返る。陸軍中野学校で受けた3か月間の教育・訓練が、「戦後日本の後始末を青年の手で」をスローガンにした末次の戦後の生き方の基礎となる強固な意思と情熱を形作った。「生前、よく言っていました。『人間、たった3か月の教育でこれだけ変われるものなのか』って」。同じ大正世代として親交の深かった中曽根康弘(元首相)は、末次について「清貧を旨とし、栄誉や厚遇を辞退し、戦後生き残りの復員兵として民族復興の一念を貫いた人」と評した。

 末次は、1922(大正11年)生まれ。地元の佐賀商業高校卒業後、学徒動員によって朝鮮・大邱で兵役に就いたが、44年1月、本国に呼び戻されて豊橋第一予備士官学校に入学、8月に卒業すると、直ちに東部三十三部隊への配属命令を受けた。その部隊での任務も含め何も知らされないままの分遣命令だった。全国各地の予備士官学校や満州、中国の幹部教育隊などから特に選抜された若者たちと共に同部隊に集合、中野学校二俣分校においてインテリジェンス工作を担う秘密戦士として教育されたのだった。


(『追悼 末次一郎』より)

◇中野学校二俣分校の特殊性

 東部三十三部隊が駐屯したのは静岡県磐田郡二俣町(現、天竜市)。組織の任務は、秘密戦に必要な学術を学生に修得させると共に、後方勤務に関する学術調査研究を実施することだった。機構は、本部・教育部・研究部・学生隊・実験隊、そして二俣分教所で構成され、同分教所が、「陸軍中野学校二俣分校」と末次らの呼ぶ教育部隊だった。公文書には「陸軍中野学校二俣分教所」(陸軍二俣幹部教育隊)と記されていた。

 そもそも中野学校は、戦争の形態が陣地戦から国力総体のパワーが問われる総力戦態勢に移行したためにインテリジェンス工作の組織的強化・育成の必要に迫られた陸軍が創設した秘密戦士の養成機関。「防諜研究所(38年)」として呱呱の声を上げ、「後方勤務要員養成所(39年)」の名称変更を経て、40年に「中野学校」と命名された。その後、戦況や時局の変化に対応して静岡県・二俣町に開設(44年8月)され、9月1日に開校したのが、「二俣分校」だった。

 真珠湾攻撃から3年足らず、日本軍はアジア太平洋全域に戦線を拡大した結果、艦船や航空機、砲弾、武器が乏しくなっていた。このため、正規戦を貫徹して闘い抜く戦力の増強は出来なくなり、軍は人力に依存する遊撃戦(ゲリラ戦)重視の作戦を模索し始めていた。ミッドウェー海戦(1942年6月)と共に、太平洋戦争における勝敗の転換点となったガダルカナル島での戦い(1942年8月~43年2月)以降、戦況が著しく劣勢となる中、新たな戦術移行に向けて期待されたのが陸軍中野学校だった。とりわけ、遊撃戦の専門将校を増やすために二俣分校への期待は大きかった。221人の見習士官から成る同校一期生には、遊撃戦の訓練が集中的に実施された。この中に、末次と小野田がいた。

 1944年11月末、昼夜分かたず厳しい訓練を受けた末次らは、それぞれ密命を帯びて任地に散った。半数以上が、インドネシア、フィリピン、ビルマ、仏領インドシナ、台湾、朝鮮等々の外地だった。小野田も外地組に含まれていたが、末次は、20人余の同期生と共に、福岡県の西部軍管区司令部勤務を命じられた。いざ本土決戦の時に備え、同司令部で、九州全域における遊撃作戦の計画策定と実行への準備をするためだった。

◇末次・小野田は何を学んだか

 末次や小野田は、陸軍中野学校でどんな教育を受けたのだろうか。

 中野学校の生みの親の一人で、同校草創期の思想的支柱となったのは秋草俊(陸軍士官学校第26期卒)という情報将校だった。参謀本部入りするまでの秋草は関東軍時代、ソ連や欧州で軍服を着ることなく、市中に紛れ平服でのインテリジェンス工作に徹し、実績を挙げた人物。伝説的な対ソ諜報の第一人者だった。自らの経験を生かした教育内容を踏まえて、総論的な「謀略」「諜報」や、実科としての「破壊」「潜入・潜行・潜在」「偽騙・偽装」などといった講義・演習を徹底して行ったが、そこに通底する目標は、孤独な秘密戦に長期間、抜かりなく堪え得る精神を形成することにあった。末次は生前、吹浦に語っていた。「中野学校では、確かに謀略や宣伝の手法、家屋に侵入するための施錠・解錠の手口に到るまで、あらゆるテクニックを教わったが、それよりもっと大事だったのは、国家とは何か、民族・国のために自分一人であっても何が出来るのかを、常に考えさせられたことだ。誰かの命令を待つというんじゃなく、自分一人で考えて使命を達成する。しかも、その手段も自分で何が最良かを決めて計画、作戦を立ててそれを完遂する、そんな訓練をしていたんだ」と。

 秘密戦は正規戦と違う。上官による命令は無きに等しく、頼りになるのは自らの判断と決断のみ。国家の大義を抱きつつ、あらゆる困難・試練にも、どんな危険や孤独にも耐え得る秘密戦を闘い抜く、真に自立した兵士を永続的に育成する――これが、秋草が目指した窮極の目標だった。世界各地に散らばり、20年、30年・・・外地に土着する覚悟で任務を果たせというのだ。

 中野学校の設立に貢献したもう一人の軍人、岩畔豪雄(いわくろ・ひでお、陸軍士官学校第三十期、陸軍省軍事課長)は、輝かしい戦績を誇る明治元勲のレガシーを引き継ぐ陸大卒のエリート。軍服を誇らしく着用する「縦横謀略」に長けた情報将校で、平服のままインテリジェンス工作を駆使した秋草とは好対照を成す人物だった。仮に、当時の情報工作員を「岩畔型」と「秋草型」に二分類すれば、末次は後者だろう。末次は、秋草から直接教えを受けたわけではないのだが、秋草が草創期に練り込んだ中野学校建学の精神と思想を間違いなく受け継いでいた。

 中野学校には、教科書も決まった教材もなかった。一貫した教育方針や指導基準があったわけでもない。教育の重点も期ごとに多少違っていた。秋草が掲げた基本方針は、「自由志願制、強制力なし」――このため、入学後に辞退、自主的に退学することが許され、実際、去って行った者もいた。講義は、秋草らを中心に陸軍大学の教官や参謀本部の参謀たちが各専門科目を担当、軍服ではなく平服着用で行われた。当時、タブーだった「天皇や国体について学生に自由に論議させた(略)。教官と学生が天皇や国体について討論するのもしばしばだった」(山本武利『陸軍中野学校』)というから驚く。外地でも一般市民に紛れ、その地に定住しつつ諜報活動をする工作員の育成が目的で、平時から軍人臭を取り除くために徹底した自由教育をモットーとした。中野の教育は、末次が大正世代ということと併せて、その思想形成に大きな影響を与えたが、これについては、次回に紹介したい。

◇「捕虜になっても生き延びよ」

 小野田によると、予備士官学校で教えられた「死を覚悟した突撃隊の指揮を取れ」とは真逆の教えを、二俣分校では受けた。「どんな生き恥をさらしてもいいから、できるかぎり生きのびて、ゲリラ戦をつづけろと。そのためには融通無礙、自由に何をしてもかまわぬというのだ」。では、戦陣訓にある「生きて虜囚の辱を受けず」とは一体何だったのか。「二俣では、捕虜になってもかまわないと教えられた。捕虜になったら捕虜になったで、敵にニセの情報を流す。そのためにわざわざ偽装投降する場合もある。わざと捕まって捕虜収容所に入り、先に入っている者と連絡をとることもある。要は、いい結果になればよい」というわけだ。つまり臨機応変、「要は、最後の勝利を得ることにあるのだ」(『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』)—と。ルバング島での「30年戦争」を完遂した小野田寛郎は、秋草がまさに期待していた秘密戦の傑士だったと言えよう。

 秘密戦士たちの多くは、戦後になっても家族、妻にさえ自分の身分すら明かさなかった。小野田夫人の町枝には、二俣分校一期生でつくる同窓会「俣一会」(幹事長・末次一郎)でのエピソードがある。

 「宿で夫人たちと語らって驚いたのは、わが夫(引用者註―小野田寛郎)の存在によって中野学校のことが知られるようになるまで、(同註―そこに居合わせた)全員が全員、自分の夫が中野学校出身者だと知らなかったことだった。夫の任地も、どんな任務を帯びていたかももちろん知らなかったそうだ」(小野田町枝『私は戦友になれたかしら』)[註1]

 末次も、小野田と同じことを中野学校で教えられたが、書物など公に知られるような形で、教練内容などを具体的に書き残すことをしなかった。[註2]

 後に深く関与する沖縄返還運動に取り組んだ際、「核抜き、本土並み」の返還原則に合意に決定的な影響を与えた日米京都会議(1969)の報告書作成のため裏方として働いた時も同じだった。政官民の水面下での調整や対日・対米の世論工作での独自の秘話を公にすることなく、墓場まで持って行ってしまった。沖縄返還をめぐり、末次と共に裏舞台の人として身を粉にして国家・国民に尽力した若泉敬が、晩年になって『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を上梓し、自ら深く関与した対米秘密交渉を細部に到るまで調べて世に問うた。だが、末次は学者・若泉と違ってインテリジェンス工作員の道を堅守した。(敬称略)

(次回「末次一郎と若泉敬<3>」に続く)

[註1]陸軍中野学校二俣分校第一期生でつくった「俣一会」は、1973年1月に第1回総会、同2月第2回総会を相次いで開き、〝小野田寛郎救出〟に向けて本格的に動き出した。小野田夫人・町枝の言葉は、小野田が復員して4年後、78年7月の総会が開かれた時のものだった。
[註2]中野校友会(会長・桜一郎)は、「中野は語らず」との信念を基調に置きつつも、国の礎石たらんとした2千余名の若者たちが自身及び斃れた戦友の足跡を記録するため、校史『陸軍中野学校』を発刊(1978)、「俣一会」もその3年後、『俣一戦史~陸軍中野学校二俣分校第一期生の記録』を刊行した。末次や小野田も、二俣分校時代、終戦時、戦後の自身を回顧した文章を寄稿している。

※参考文献 『追想・末次一郎 国士と言われた男』、山本武利『陸軍中野学校』、畠山清行著・保阪正康編『秘録 陸軍中野学校』、『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』、小野田町枝『私は戦友になれたかしら』、『俣一戦史~陸軍中野学校二俣分校第一期生の記録』

【略歴】
鈴木 美勝(すずき・よしかつ)
 ジャーナリスト(日本国際フォーラム上席研究員、富士通FSC客員研究員、時事総合研究所客員研究員) 早稲田大学政経学部卒。時事通信社で政治部記者、ワシントン特派員、政治部次長、 ニューヨーク総局長を歴任。専門誌『外交』編集長兼解説委員、立教大学兼任講師、外務省研修所研究指導教官、国際協力銀行(JBIC)経営諮問・評価員 などを経て現職。著書に『日本の戦略外交』『北方領土交渉史』(以上、ちくま新書・電子書籍)、『政治コミュニケーション概論』(共著、ミネルヴァ書房)。
鈴木 美勝

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