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外交裏舞台の人びと 
鈴木美勝(ジャーナリスト)

福井県鯖江市の総山墓地にある若泉敬(右)と夫人ひなをの墓(筆者撮影)

コラム

第3回 末次一郎と若泉敬(3)

「死に遅れた男」若泉敬の軌跡

◇沖縄返還で連携した2人
 沖縄返還交渉の「密使」若泉敬と、裏舞台外交で世論工作を進めた年長の末次一郎との年齢差は8歳。2人は、幼少期に軍国主義以前の社会体制の下で育った「戦前派」ではなく、デモクラシーの思潮が押し寄せた中で幼少期を過ごした「戦後派」でもない、言わば同じ「戦中派」世代として括られ得るが、そこには精神的断層が存在する。<世代>とは、「共通体験」を核として形成される社会集団の一つ。その「共通体験」は「偶然の産物」ではなく、社会変動を「歴史的運命」と個々人が自覚した時に初めて、思想史的概念としての<世代>が登場する。19世紀半ば、黒船来航に危機感を抱いた憂国の志士たちがそうだった。

 幕末世代の1人、越前の国の現福井市に生を享けた橋本左内は、15歳にして「啓発録」を執筆し武士道の衰退を嘆き、後に開国・交易と統一的な国家体制の必要性を説いて政治運動に加わり、安政の大獄で満25歳の短き生涯を閉じた。左内に畏敬の念を抱く昭和一ケタ生まれの若泉は志を貫き、1972年の沖縄返還に大きな役割を果たす。だが、核密約の重みに一身に耐えて、晩年は福井県鯖江市に隠棲した。沖縄への「背信行為」を悔やみ、「(自分は)余りに長く生きすぎた」と漏らしつつ、66歳で自裁した。

 ここでは、沖縄返還問題で連携した2人――大正生まれの戦中派世代「死にそびれた男」末次〔連載第1回、第2回参照〕に対して、「死に遅れた男」若泉の原点――そこから見えて来る戦中派の生き方と死に方、人生の軌跡の違いを探ってみる。


若泉敬の肖像(鰐渕信一氏蔵)

◇内なる妻の碑文「生あるかぎり溌剌と」
 9月下旬、白露きらめく季節に入ったはずなのに、なお残暑厳しく、小高い丘にもそよ吹く風はなかった。福井県の山並みを眺望できる総山墓苑。国際政治学者、若泉敬は墓苑の頂きに近い一角に眠っていた。思い入れのあった地球儀を模した球体型の墓、日米が向き合う太平洋を正面にした部分には座右の銘である<志>の一文字、台座には沖縄の瓦屋根などによく目にする伝説の獣像、シーサーのミニチュアが置かれていた。左隣には墓碑が立ち、先立たれた最愛の妻、ひなを・・・(享年55歳)〔註1〕が、弁護士として肌身離さず持っていた『訟廷日誌』に自筆で書き込んだ自身の信条と一句が刻まれていた。


若泉夫人ひなを・・・

「生あるかぎり溌剌と/生ける精神をもって/働きつづけ 仕事の中で/斃れる。
花見れば花のうつくし/雲ぞ恋しき わが生きをりて」


末次が銘を揮毫した「若き泉 志」(筆者撮影)

 晩年の若泉を、時に介添え役ともなって支え続けた鰐渕信一は墓前で静かに手を合わせた。共に同道してくれた、鯖江駅前で酒店を営む久保田美代子は、帰途、若泉も通った蕎麦屋「聴琴亭」で、気軽に接してくれた故人を偲んだ。「ある時、50人分以上の手紙の宛名書きをお願いされ、香木が焚かれたようなお部屋で作業したこともありました」。三回忌には、末次一郎をはじめ、楠田實(内閣総理大臣佐藤栄作の首席秘書官)、五百旗頭眞(国際政治学者)らも若泉ゆかりのこの蕎麦屋に立ち寄ったという。久保田酒店では、没後に醸造した純米吟醸酒「若き泉 志」銘の揮毫を末次に依頼した。その裏側のラベルには次のようにあった。「(略)・・・『志』に心魂を注ぎ最期まで信念を貫いた/若泉先生/先生との出合いに感謝し/心のひびきをこの酒に託したい/先生の真の同志 末次一郎先生にご揮毫頂き/『若き泉 志』が誕生しました」。沖縄返還に向けて「志」を同じくした末次と若泉。鯖江の地で生まれた吟醸酒を挟んで二人の心が響き合っているようでもあった。

◇戦中派の断層・少国民世代と大正世代
 末次と若泉は、長州萩生まれの大山岩雄なる在野の言論人(社会運動家)が拠点とした有楽町駅近くにある事務所で知り合った。そこは、若泉ら学生土曜会メンバー〔註〕の溜まり場でもあったが、二人が関係を深めるのは、1960年代、沖縄問題をめぐる動きが本格化した頃からだった。

 末次が1922(大正11)年10月生まれ、若泉は1930(昭和5)年3月生まれ。日本では、大きく分ければ第二次世界大戦を絡めて「戦前派」と「戦後派」、これら両世代に挟まれた世代を「戦中派」と呼ぶ。貝塚茂樹(武蔵野大学教授)によると、「戦中派」とは、一般的に1919(大正8)年~28(昭和3)年生まれ、「幼少時代から軍国主義以前の社会体制の記憶がなく、青年期には徴兵・徴用の対象として集中的に戦時体制の中に動員された世代」を指す。また、世代論に関連して、若泉と同じく「土曜会」〔註2〕メンバーだった粕谷一希は「後期戦中派」という言葉を造ったが、この用語を当てはめれば、30(昭和5)年生まれの若泉も「戦中派」に含まれるのだが、末次と若泉の精神的断層に分け入るには、さらに絞り込んで、若泉を「少国民」世代と位置付けた方が適切だろう。

 少国民とは、戦時中、小学校くらいの年少の国民を指したが、他方、より深い意味では、天皇に仕え、国のために尽くす年少の皇国民としても使われた。第二次大戦中の41年3月、国民学校令に基づき尋常小学校と高等小学校が国民学校(初等科6年、高等科2年の8年制)と改称され、学校行事・儀式・礼法・団体訓練が重視されるようになった。心身を鍛え、国のため天皇のために身を捧げることを求められ、授業には男子が銃剣術などの武道を、女子は薙刀なぎなたや看護などの訓練が取り入れられた。

 若泉は、福井県の山間やまあいの村、今立いまだて服間ふくま村に生まれ育ち、42年3月、服間小学校・服部分校を卒業、同4月に服間国民学校高等科に入学した。国民学校では、徹底した軍国教育を受け、戦場で勇敢に死んでいくことが立派な生き方として教えられた。12歳の若泉少年は、日本が戦争に勝つと信じ込まされ、実際、神国日本の不滅を信じた。「神風が吹いて日本は絶対に勝つ」―と。「少国民」世代は、時に出征兵士を見送り、神社で武運長久を祈願し、あるいは兵士への慰問文を書き、飛行機用の油を作るために松の根を掘った。

◇「なぜ神風は吹かなかったのか」
 1944年春、服間国民学校高等科を卒業した若泉は4月、各県に一校設けられた師範学校(福井師範予科)に入学する。そして、翌45年夏、軍国主義体制の下で「忠良なる臣民」育成が責務となる師範学校在学中、若泉を襲ったのは「神国日本」敗戦の衝撃だった。それまで若泉の全身を占めて来た価値体系・信条体系が瞬時に瓦解した。次いで、流れ込んできた全く対極に位置するアメリカン・デモクラシーの波。またしても上から、「戦中派」は、新たな価値体系を無理やり押し付けられた。若泉は憤激した。

 1994年秋、若泉が最も心を許した学友、池田富士夫は、鯖江に赴いた際に交わした会話の中で、印象的だった若泉の言葉を書き残していた。奇しくも、橋本左内が今後の生き方を見据えて「啓発録」を著わしたのと同じ15歳の時、若泉の方は敗戦の日を迎えた。若泉は、往時をふり返ってこんな風に語ったという。

 「大人は信用できん。なぜ神風が吹かなかったのか。なぜ神国日本が負けたのか、責任は誰がとるのか。大人は米軍にペコペコするだけで、誰も答えてくれなかった」(後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って』)――と。

 一方、その頃の末次はと言えば、44年9月、秘密戦に必要な学術・実践を修得するために陸軍中野学校二俣分校に入学。そして、日本の劣勢を感じつつ、11月末には、本土決戦となった時に備えて福岡県・西部軍管区司令部勤務を命じられ、45年8月15日を迎えたのだ。

 玉音放送後も日本軍の一部には徹底抗戦の声が根強くあったものの、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立つと、そんな空気は跡形もなく消え失せた。こうした中で復員した末次は覚悟を決めて自決を試みた。が、果たせず、「死にそびれた」挫折感を抱えながら、その後、約1か月にわたる流離さすらいの旅に出た。そして、ある朝、禅寺で前夜の老師との語らいを反芻していると、不思議なことにそれまでのモヤモヤが吹っ切れた。生き残った自分の役目は、亡き戦友の供養と併せて「日本再建のために」と青年運動(日本健青会)を興すこと―こう確信した。それが、後に沖縄返還運動にまでつながっていくのだが、いったん「死」を覚悟しながら恐怖を乗り越えられず、代わって自身の総体を鎮魂と国の再興、すなわち死者と共に生き続ける人生に賭けた末次については、既に第1回・第2回で詳述した通りだ。大河の一滴ひとしずくによって岩をも穿つ、気の遠くなるような根気の要る作業を通じて、自らに課した「戦争の後始末」を志向した末次の生き方。「美学」云々とは無縁の世界。「実」を取ろうとする、そんな泥臭い生き方だった。それこそが、戦死者と共に戦後を生き続け、「生の実感」と「実存」を取り戻す道―「死にそびれた男」末次の真骨頂だった。

◇「私は筆硯を焼く」
 では、8歳年下の若泉の「死と生」の軌跡はどうだったであろうか。

 若泉の死生観をめぐっては、地元福井の名刹永平寺(曹洞宗)や青森恐山の山主代理を兼務する霊泉寺(福井市)住職、禅僧南直哉じきさいとの交流、そして伊勢神道との関わりなど――宗教や霊的なものへの傾斜が際立った最晩年とも絡んで、なお複雑で奥深いものを孕んでいるように見える。

 碑文にした書き込みは、ひなを・・・の遺品を整理していた若泉が『訟廷日誌』の昭和五十年度版の最後のページにあったのを見つけたものだった。何の因果なのか、ひなを・・・は、出張先の沖縄で心筋梗塞に斃れた。「沖縄・慰霊の日」―1985年6月23日のことだった。当の若泉はその11年後の96年6月、摩文仁の国立全戦没者墓苑などに参拝、それからほぼ1か月後に自裁するに到った。

 「土曜会」のメンバーでも特別な存在だった心友、池田富士夫の証言や、事前に準備されていた<この世を去るにあたって、>と明記された若泉の署名の入りの「感謝寸言」等々――それらから推し量ると、眼前に迫る「死出の山」を見た若泉は、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』〔註3〕公刊後遅くとも、自裁する1年半前には旅立ちの準備を整え始めていたことになる。確かに、その頃の若泉は末期癌に蝕まれていた。しかし、「生あるかぎり溌溂と生ける精神をもって働きつづけ仕事の中で斃れる」ことを自身に課した職業人、そのプライドを持って志を貫いたひなを・・・の「死」に直面して初めて若泉は、「生きる」ことと「死ぬ」ことの真の意味を強く意識し始めたのではないか。「感謝寸言」には、妻ひなを・・・が死去した時に配布された「御礼状」――ひなを・・・自筆の碑文と同じ一文/一句が書き記されていた――も改めて同封されていた。

 若泉にとって「死ぬ」とは、病魔によって生の終わりが告げられるような、言わば肉体の「自然死」のことではなかった。沖縄返還は実現したものの、核再持ち込みの密約という背信に自責の念を持った若泉は、<生きた証の総括>として、自らが決する意思による生との断絶‥‥すなわち、自身が覚悟を以って実行するしかない「自裁」を指していたのではなかったか。

 全身全霊を傾けた沖縄返還交渉に関して、密約も含めて洗いざらい告白し、掛け替えのない妻の死から9年後(1994年5月)に上梓した若泉にとって渾身の力を振り絞った最後の〝仕事〟、それが『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』だった。その本文は次のような言葉で結ばれていた。

 「ここで、断截だんせつし、私は筆硯ひっけんを焼く」

 同書公刊の半年後、池田は鯖江の若泉邸を訪れ、深更まで『他策ナカリシヲ』について議論を重ねたが、末尾の「筆硯を焼く」に込められた意味を理解できなかった。空っぽになった書庫を見せられ、そこに「蔵書はすべて焼いたんだよ。蔵書は学者の命なんだ」と若泉が口にした言葉を重ねても、友の真意を見抜けなかった。が、年が明けて1か月後、1995年1月23日に再訪した時、対話を通じて若泉の揺るがぬ覚悟の程を理解した。若泉の「僕は沖縄に殉じた」――このひと言と併せて、「筆硯を焼く」が「自裁」を覚悟した含意であることを確信したのだった。


若泉敬著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 核密約の真実』(1994年5月、文藝春秋) 

◇『他策ナカリシヲ』の謎
 以来、1996年7月27日、不帰の人となるまでの若泉は、2回にわたる沖縄全戦没者追悼式への参列の間を縫って、硫黄島慰霊、沖縄県与那国島訪問、伊勢神宮参拝等々――をこなし、「自裁」への階段を一つ一つ踏むかのように自身の終章を書き上げて行った。が、ここで見逃せないのが、80年、鯖江での隠棲に入り、人に会うためにのみ遠出することがめっきり減った若泉が、末次一郎とは2度にわたって会って懇談している事実だ。

 これは、故なきことではなかった。それは、自身の生きた証として「総括」した『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』と深くかかわっていたのではないか。

 鯖江で隠遁生活に入ってから、実はこんなことがあった。『他策ナカリシヲ』の準備に入り、秘かに執筆作業を進めていた若泉だが、ある段階で、末次に書き上げた原稿を見せている。ところが、原稿に目を通した末次は激怒した。そこには、秘密は墓場まで持っていくものという中野学校出身者としての信条があった。それでも、志をいったんは同じくした友が実際書いてしまったことであるから、自身の関連部分を消すことで最低限の折り合いはつけられた。末次は、側近として仕えていた安保研事務局の吹浦忠正に、自身の関連部分を削除するよう命じた。

 結局は、628頁(二段組)の大著として『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』が刊行されたが、表向きの装いはともかく、若泉最晩年の2回にわたる末次との対面にも関わらず、2人の関係は内実、元には戻らなかった。「若泉原稿を読んだ時の末次の怒りは尋常ではなかった」という。一説には、沖縄返還に続いて北方領土の回復に全身全霊を傾け始めた末次だけに、「戦後処理として残された北方領土返還という問題でも、若泉の力を借りたかったのではないか」「沖縄返還にまで持って行った知られざるノウハウ――今後の交渉相手に手の内を――ばらされたくなかったのではないか」などの見方もある。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』に、末次の名前が出て来る個所が一部残ったが、「原稿用紙の少なくとも数十枚分は削った」(吹浦)という。その削られた部分に何が書かれていたかは、謎のままである。(敬称略)

〔註1〕若泉とは、福井師範予科で知り合い、明治大学を卒業し、司法試験に合格。福井県初の女性弁護士。東京にも多くの依頼人を持ち、県内外で有能な弁護士と知られた。
〔註2〕学生主宰の研究会。共産党系の全学連系自治会に反発して結成された学生団体が前身で、メンバーには、矢崎新二(防衛事務次官)や若泉をはじめ、池田富士夫(八幡製鉄)、岩崎寛弥(三菱銀行)、粕谷一希(月刊誌『中央公論』編集長)、佐々淳行(内閣安全保障室長)らがいた。
〔註3〕書のタイトルは、日清戦争時の外相・陸奥宗光の回想録『蹇蹇録』からの採録。仏独露が日本に対して、下関条約によって割譲された遼東半島を清国に返還するよう勧告(三国干渉)、その受諾に際して陸奥が「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス(他に方法はなかったと信じたい)」と書き記したことに因む。

※参考文献 若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』、後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って』、森田吉彦『評伝 若泉敬――愛国の密使』、「NHKスペシャル」取材班『沖縄返還の代償・核と基地―密使・若泉敬の苦悩』末次一郎『「戦後」への挑戦』 令和6年夏季特別展「橋本左内と横井小楠」解説図録

【略歴】
鈴木 美勝(すずき・よしかつ)
 ジャーナリスト(日本国際フォーラム上席研究員、富士通FSC客員研究員、時事総合研究所客員研究員) 早稲田大学政経学部卒。時事通信社で政治部記者、ワシントン特派員、政治部次長、 ニューヨーク総局長を歴任。専門誌『外交』編集長兼解説委員、立教大学兼任講師、外務省研修所研究指導教官、国際協力銀行(JBIC)経営諮問・評価員 などを経て現職。著書に『日本の戦略外交』『北方領土交渉史』(以上、ちくま新書・電子書籍)、『政治コミュニケーション概論』(共著、ミネルヴァ書房)。
鈴木 美勝

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