「グローバル・アイ」
第8回 西川 恵

崩れつつあるパクス・アメリカーナにどう対処すべきか
「不都合な真実」を浮き彫りにしたトランプ米大統領
毎日、世界がトランプ米大統領の言動に振り回されている。就任初日に26本の大統領令に署名したのを皮切りに「関税引き上げ」「ガザ所有」「ゼレンスキーは独裁者」など連日ニュースになる話を、手を変え品を変えて提供し、メディアの関心をそらさない。
このやり方を英語の慣用句で「flood the zone」と言うのだと知人が教えてくれた。アメリカン・フットボールなどのスポーツで使われてきた用語で、flood(洪水、氾濫させる)から類推できるように、特定の場所(zone)に多くの選手で圧力をかけて、防御を突破する作戦を指す。政治や軍事でも使われている。
この「『flood the zone』戦術をメディアに適応すべきだ」と最初に説いたのは、トランプ第一次政権で7カ月間、首席戦略官を務めたスティーブ・バノン氏だという。「本当の敵はメディアである。連中に対処するにはクズ情報でゾーンを溢れさせることだ」と。ここでの「ゾーン」はニュースや紙面ということだろう。
トランプ氏はこれを実行し、今のところ成功している。ニュースの洪水にメディアは追いつくのが精一杯で、個々のニュースの価値や重要性が低下している。また何がどこまで真実なのかあいまいになっている感があるが、それを検証する暇もない。
一方で、会見やX(旧ツイッター)でのトランプ氏の冷笑的な言辞によって、これまで隠されていた「不都合な真実」が明るみに出されている。
第二次大戦後、米国の主導によって世界システムと国際秩序が構築され、「パクス・アメリカーナ(Pax Americana)」と形容される、「超大国・米国の覇権による平和」が続いてきた。しかし2013年、当時のオバマ大統領は「米国は世界の警察官ではない」と語り、米国が世界の紛争に積極的に関われなくなった現実を白状した。そしてこの延長線上で、トランプ氏は「米国一国主義」を掲げ、「私は米国を偉大にする。あなた方は、あなた方で自国の面倒を見ればいい」と突き放した。この姿勢が、第一次政権を経てより明確になった。
◇安全保障体制──自国で確立する時期に突入した
パクス・アメリカーナが崩れつつある今、パクス・アメリカーナに胡坐をかいてきた「不都合な真実」が同盟国に突きつけられている。
欧州や日韓など米国の同盟国は、これまで米国のやりすぎには苦言や文句を言い、一方で米国の関与が薄まることには神経を尖らせてきた。また北大西洋条約機構(NATO)内で米国は長年、欧州に防衛費のGDP(国内総生産)比2%達成を求めてきて、昨年やっと加盟32カ国中18カ国が達成した。日本も憲法上の制約があったとはいえ、日米安保条約を所与のものとして、そこに安住してきた。
パクス・アメリカーナから米国も利益を得てきたことは確かだ。米国の圧倒的な政治・軍事・文化面での影響力、基軸通貨としての米ドルの優越的な地位、世界の富の米国への流入、米国の世界戦略を可能にしていた飛び石伝いに存在する米軍基地……。ただ「米国も利益を得ている」ことを良しとして、同盟国側が安全保障面で米国に頼り、努力を怠ってきたことはまぎれもない事実だ。
この点から言えば、安倍晋三首相が主導した平和安全法制(2016年施行)、岸田文雄首相の「27年度に防衛費GDP比2%増額」指示(2022年)は、パクス・アメリカーナの綻びを念頭に、日本が自分の足で立つ意思を示した政策だった。
もう一つの「不都合な真実」は、自由、民主主義、法の支配といった「普遍的価値」の拡大は必然の流れではないということだ。冷戦終結後、西側先進国は普遍的価値を広げていくことによって世界を民主化し、平和な国際秩序を築いていけると考えた。欧州連合(EU)とNATOが東方拡大によって、東欧諸国を包摂してきたのもそのためだ。ウクライナも普遍的価値を取り入れることを正義と考え、両組織への加盟に期待するようになった。これがロシアを刺激し、侵攻に繋がった。
西側世界に入ることを選択したのはウクライナ自身とはいえ、この3年間の戦争による同国が被った膨大な被害と犠牲のコストは、果たして手に入れようとした正義と見合うのかという深い問いを我々に突きつける。場合によっては「これほどの犠牲を伴うと知っていたなら、西側世界に入る選択をしない方が良かった」という答えもあり得るだろう。グローバルサウスの有力国はウクライナ戦争を「正義と悪の戦い」と捉えておらず、実利に即して行動している。そしてトランプ氏自身が普遍的価値に興味を失っている。
日本や欧州は厳しい立場にあるが、日本は国の普遍的価値と自らの存立を守り、無益な戦争を仕掛けられないためにも、まずもって自らの安全保障上の能力と体制を確実にしていかなければならない。二つの「不都合な真実」はこのことを告げている。

【略歴】
西川 恵(にしかわ・めぐみ) 毎日新聞客員編集委員
1947年生まれ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、専門編集委員を歴任。フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。日本交通文化協会常任理事。著書に『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『知られざる皇室外交』(角川書店)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)など。